徳利類コレクション

飴釉渡名喜瓶(八重山)

耐火度の高い白土を用いた八重山らしい土味の渡名喜瓶です。胴部の彫りの深い輪線も特徴的です。かなり精度の高い造形性ですので、その作行から従来湧田・壺屋と呼ばれていたものです。このページでは、当研究所がテーマとして追い続けている八重山の紹介が多くなってしまいますが、今後ともじっくりと腰を据えて取り組んでいきたいと思います。
 
飴釉徳利 (湧田)

半陶半磁器質の胎土は、李朝堅手を彷彿とさせ、更に下膨の流線型フォルムによって、格調高い気品を感じさせます。元々は湧田産と呼ばれてきたものですが、近年の八重山再発見により八重山との比較検討も視野に入れ考えてみたいものです。
土・釉・姿形共に李朝飴釉徳利に比肩し得る、琉球古陶の陶技の確かな美を体現した逸品と申して過言なきものと云えるでしょう。



 鉄釉流掛瓶子 (八重山

八重山古陶の特徴である青みを帯びた灰釉に、勢いよく鉄釉が流し掛けられた瓶子の残欠です。湧田壺屋古窯にも同様の鉄釉流掛のものがありますが、釉薬の発色やフォルムなど、八重山との違いを感じることができます。灰釉ベースに鉄釉流掛の技法は他にも、徳利や瓢型徳利、渡名喜瓶、油壺、更には火入や筒花生にも用いられています。
ちょうどそれとは逆にネガポジ反転したかのような意匠である、鉄釉ベースの灰釉流掛と云うものもあり、観宝堂40周年を記念して発行された図録「八重山の古陶」(2013年)に掲載の図52鉄釉灰釉流掛瓶(沖縄県立博物館所蔵)は正にその好例と云える見事なものです。
また釉の流掛技法は、琉球に直接影響のある薩摩古陶や、九州諸窯で多用された技法でもあります。しかし、特に鉄釉のみの流掛となると、
唐津などに散見できますが実はあまり類例がありません。時代の流行意匠の伝播と云うものはとても速く、志野と唐津の絵付けを取ってみてもお分りの通り、まさに一気に駆け抜けていく感があります。今後、技法と意匠に関する産地間の相関関係にも更に注目していく必要があるようです。


参考画像:古唐津鉄釉流掛陶片



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緑釉流掛徳利(湧田、壺屋)

壺屋の白化粧土とは異なり、白土を胎土に用いた美しい緑釉流掛徳利(もしくは対瓶の可能性も有)です。口縁の欠損が直されており、オリジナルの口造りではありません。
琉球の緑釉(オオグスヤ―)は、酸化銅ではなく真鍮を着色原料に用いている点が織部の緑釉と異なります。この徳利ではあまり辰砂には発色していませんが色合いには変化があり魅力的です。かなり鮮明な辰砂の発色をしている物も稀に見かけることがあります。
胴部から肩部にかけて割合に張りのあるフォルムも、化粧掛の壺屋焼よりも古い形式です。高台造りの類似性も含め、平佐や肥前系の波佐見などの徳利との影響関係が指摘できます。
 高台内の無釉部分からも、改めて化粧掛でないことが分りますが、李朝堅手を彷彿とさせる半磁器な焼成で、磁器モノを写したと捉えるとまた見方が変わってきますね。

参考画像:美濃 織部陶片(17世紀)


織部参考資料との比較





飴釉流掛徳利(対瓶)  (湧田・壺屋または八重山) 

飴釉流掛徳利(または対瓶)残欠です。頚部から上が欠損していますが、らっきょう形のフォルムに飴釉の流下も美しく魅力的な一振りです。従来より産地とされてきた湧田(壺屋)古窯か、または八重山古窯の特徴も備える点もあるなど今後の発掘調査と研究に期するところです。2番目に紹介しました八重山古陶鉄釉流掛瓶子との共通点など、現時点でも土や釉薬、姿形など押さえておきたいですね。
ちなみに高台内側中央部分はデベソになっています。高台の削り方は陶工の好みやその時の気分によっても異なるようで、大嶺實清さんが八重山個陶に関する講演でそのように言われています。このデベソ高台は、湧田(壺屋)だけでなく、古我知の徳利などにもよく見かけますし、八重山にもありますね。仕上げ具合で云うと、所謂古我知古窯のものが陶工の勢いがあるように感じ、土味などから時に唐津を連想させるものもあります。
このようにスッと削る感じは、李朝の高台造りとも通じるところで、徳利ではフォルム自体にも李朝の雰囲気を漂わせるものが多く見られ、誠に興味深いところです。



同徳利 高台部分




焼締徳利残欠(喜名、八重山)

金属器のように薄造りが特徴の焼締徳利、通称喜名徳利。以前より評価が高く、完品となれば入手困難極まる究極の琉球古陶の一つに数えられるもので、収まる処に収まってなかなか出てきません。今となると、このような首の飛んだものでもなかなか入手し難いもので、当研究所でも大小合わせて数点かしか所持しておりません。時代が下ると、升瓶(マスビン)と呼ばれる琉球独特の計りの役割をした徳利が出てきますが、琉球の焼締徳利はこのような端正な姿を持ったものからその歴史は始まっています。
整えられた美しいフォルムは、本来口縁が大きくラッパ状に広がる形で、同時代の酒器に用いられた錫徳利との相関関係も指摘されます。桃山を経て江戸に至る17世紀と云う時代の趣向を反映した徳利と云えるでしょう。
さて、本品は高さが16センチほど(まさに酒器には格好)の徳利ですが、所謂喜名徳利の中でも一番に薄く挽かれている部類で、口縁部断面で厚さ2、5~3ミリ程度しかありません。陶工の確かな腕と良質の陶土、そして焼締めの素晴らしさを改めて実感します。混和材の小さな石英粒が表面からも確認できますし、泥釉薬が薄っすらと塗布されています。産地に関しては、喜名古窯と断定するよりも八重山古窯に類似する土といえますので、個人的な判断だけではなく、今後の研究材料としていきたいものです。
いずれは完品を!!と努々念じ祈願するところですが、30年前でも当時の相場で50万程であったことを耳にすると、現在はどれ程になるものなのか…。
さるれば、このような残欠ゆえど格段に有難く感じるところ。口部の開きに通じる根元がほんの少しでも残っているため、注いだ後の酒の切れも良く、酒器として愉しめるのも誠に嬉しい限りです。
上記徳利 高台部分

参考図版:喜名・知花(17C後半)
図録「沖縄のやきもの」より




焼締徳利「升瓶」残欠(壺屋)

肩口に、刀傷のように十字文の入った焼締徳利です。この手になると升瓶(マスビン)と呼ばれる、泡盛を分ける際に片口のような計量の役割も果たした器と云われています。
先に紹介した17世紀の薄手に挽かれた焼き締め徳利から始まって、時代が下るに従ってこのようにザックリとした野趣溢れる造りになっていきます。19世紀に入ると王府により徹底して生産管理されていた泡盛の生産も、本島だけでなく各島で盛んに生産されたと云いますから、升瓶の需要も益々増えたことでしょう。
焼締で有名な備前焼では、室町・桃山から江戸にと時代が下るに従って、本来の土味が薄らいでいくのに対して、琉球では18,19世紀に入って尚、升瓶など焼締陶は味わうに足る景色あるものが作られ続けているので必見です。
桃山備前とはまた一味違った趣向ある焼締徳利「升瓶」。泡盛の歴史と共に歩んだ器として、酒器のみならず花器としても、現在の暮らしに取り入れたい魅力ある一品ですね。




灰釉瓶子残欠(八重山)

キリっと引き締まったフォルムの美しい瓶子です。八重山古陶と云うことで近年俄然注目度も高まるものです。
美しい器形を造るには、陶工がこの形が美しいと云う感覚を身に付けておかねばならぬもので、そんな造形性をしっかりと体現した作として申し分無い瓶子です。
時に、これは個人的な感想(感傷)に過ぎないかもしれませんが、瓶子は「口が欠けていたほうがいいなあ」と思う瞬間が間々あります。”不完全の美”とはよく言われることですが、ミロのヴィーナスにしろサモトラケのニケにしろ、元に戻らぬ欠けてしまった”雰囲気”がたまらなく美的にくすぐる訳で、「オリジナルの腕部が発見された、それじゃあ欠けてた腕を接着しよう」となったらさあ大変。賛否両論大変な物議を醸すことになることでしょう。
皆さんだったら修復か否か、どちらに賛成の手を挙げられますか。
さて、少し話がそれましたが、瓶子は酒器としてそのフォルムからも人物像的なイメージも強く感じられる器です。口部が欠けてはおりますが、飾らぬ美しさが観るものの眼にはしっかりと残るものでしょう。八重山のヴィーナスも欠けて尚更なる美しさを湛えているものですね。